ひとひらのことのは

今朝、新聞の目次を見ると、「首相、靖国に代え明治神宮参拝」と書いてありました。わたしは安倍首相がそんなことを言ったのかと思い、慌てて新聞を開きました。すると記事には「当面困難視される靖国神社参拝に代え、森喜朗首相までほぼ恒例となっていた明治神宮参拝を復活させることで、保守層に自身の政治姿勢をアピールしたい思惑もありそうだ。」と書いてあったのです。

つまり「靖国神社参拝に代えて、明治神宮を参拝した。」と安倍首相が述べたのではなく、記事を書いた記者の憶測に過ぎなかったのです。これは記者もしくは目次の作成者にミスリード(謝った方向に導くこと。新聞・雑誌などで、見出しが記事内容と違うこと。)の意図があったと取られてもおかしくはありません。今日の新聞の目次しか見なかった人の多くは、「安倍首相が靖国神社参拝に代え、明治神宮参拝をしたのだな。」と思うことでしょう。もちろん、明治神宮参拝が靖国神社参拝の代わりにならないことは、申し添えておく必要があります。この記者の、神社に対する認識の浅さが出た記事でもあります。

マスコミは「公正・中立」だとお思いの方も多いでしょうが、マスコミの流す情報には必ずバイアス(偏向)が掛かっています。新聞で説明すると、朝日・毎日は左寄り、読売・産経は右寄りのバイアスが掛かっているのです(今の日本全体の思想は左に寄っているなので、産経でも中道と言ってもいいくらいですが)。また、広告主の意向により、報道内容が影響されることも覚えておく必要があります。

マスコミの報道が氾濫する今の時代に必要とされるのが、メディア・リテラシー(情報を評価・識別する能力)です。日本人はマスコミが言っていることは全て正しいと思いがちですが、マスコミの報道を鵜呑みにすることなく、その裏に隠された意図を読み解く能力が、われわれ情報の受信者には求められています。


6昨日、インターネットを見ていると、こんな記事を見付けました。まずは中日新聞のホームページより記事を転載します。


バス停で喫煙を注意されたことに腹を立て、女性と赤ちゃんを殴ったとして、伊勢佐木署は五日、傷害の現行犯で、横浜市中区扇町四、ビル清掃員岡部清容疑者(60)を逮捕した。

調べでは、岡部容疑者は同日午後零時二十五分ごろ、同区の「長者町一丁目バス停」でバスを待ちながら喫煙をしたところ、会社員の女性(26)に「すみません、やめてもらえませんか」と注意されたことなどに腹を立て、女性と抱いていた生後八カ月の長男の二人を手で殴った疑い。女性は手に軽いけが、長男も頭に軽いけがを負った。

岡部容疑者は注意を受け、「いいですよ」と応じたが、バス停を離れる際に女性らにたばこの煙を吹きかけた。煙を手で払った女性に対し、「ふざけるな」などと言って殴ったという。同容疑者は「申しわけない」と容疑を認めている。



この記事を見て腹が立ったのと同時に情けなく思えました。還暦にもなろう人が喫煙を注意されたからといって、親だけではなく1歳にもならない赤ん坊を殴るとは信じ難い話です。この男には子供や孫はいないのでしょうか。いるのなら赤ん坊に手を上げようとは決して思わないでしょう。子供がいなくても普通は殴ろうとは思いません。「男なら」「女なら」というとジェンダーフリー論者の方から抗議が来そうですが、この男は「男なら女子供に手を上げるな」と教わらなかったのでしょうか。こういう行為は男として恥ずかしいことです。しかも、横浜市交通局は全バス停を禁煙にしており、当然このバス停も禁煙だったのです。呆れて物も言えません。

昨日の熊本日日新聞の投稿欄にも、「禁煙の場所で喫煙をしている2組の夫婦に対し、店員さんを通して注意をしてもらったら、告げ口しただろうと逆に因縁をつけられた。」という女性の投稿が載っていました。わたしは煙草を吸いませんが、だからといって喫煙者を嫌うわけではありません。ですが、マナーは守ってもらいたい。わたしは子供のころに、歩きながら喫煙をしている人の煙草が手に当たって火傷をしたことがあります。大人が煙草をもったまま手を下げると、ちょうど子供の顔の位置にくるんですよね。煙草の火が子供の目に当たって失明したという話もあるそうで、危険極まりない行為です。当社の境内でもよく煙草の吸い殻が落ちているのを見付けます。境内に面している道路の吸い殻が風邪で流されてくるのでしょうが、いずれにせよ吸い殻をどこそこに捨てるのはやめてほしいものです。非喫煙者が煙草によってどれだけ迷惑を被っているかを、喫煙者には考えてもらいたいです。それをしない人には煙草を吸う資格がないと思います。

喫煙者のマナーに見られるように、最近の日本は「自分さえよければ人の迷惑になろうが構わない」という風潮があります。何故日本はこうなってしまったのでしょうか。他人に対し、思いやりや尊重する気持ちを持っていたのが日本人の美徳だったはずです。このような日本人の美徳を取り戻すために、自分に何が出来るのかということを考えていくのが、神職としての私の務めだと思います。


このところ新聞を賑わせているのが、日本の「核武装論議」です。北朝鮮の核開発問題。中国も核ミサイルを日本に向けているといいます。そういう状況で、「核武装論議」が持ち上がってくるのは当然だといえましょう。自民党では麻生太郎外相や中川昭一政調会長が「核武装論議」を容認しています。

核ミサイルを全世界から廃絶しようと世界各国が努力している中で、日本が核ミサイルを持つというのはその流れに反しています。核ミサイルを持つとしても膨大な費用が掛かります。なるべくなら核ミサイルを持たないにこしたことはありません。

しかし、この「核武装論議」の問題でおかしいのは、核武装の論議自体をするなと主張する人々がいるということです。日本は民主主義国家ですから、論議をして何がおかしいのでしょうか。同じような動きは憲法改正問題、教育基本法改正問題にも見られます。憲法改正のための国民投票法すら制定するなという政党もあります。言論の自由なくして何が民主主義国家なのでしょう。しかも、「核武装論議」をするなという主張に一部のマスコミが賛成しています。マスコミが言論の自由を制限するのはどういうことでしょう。自分で自分の首を絞めているとしか思えません。

「核武装論議」を容認した麻生氏も中川氏も、「日本は核武装しろ」とは一言も言ってません。それなのに野党からは罷免しろとの声が挙がっています。議論を容認しただけで罷免されなければならないのでしょうか。

はっきり言いましょう。「核武装論議」をするなというのは、明らかな言論弾圧であり言論封鎖です。このことに関しては安倍首相も同じ意見を表明しています。

面白いことに「核武装論議」をするなと主張する人達は、戦前の日本の国家体制を批判する人達と重なります。「戦前の日本に言論の自由はなかった。」と主張する人達が言論弾圧をしているのですから、呆れて物が言えません。

どんなに難しい問題であろうと、議論すること自体をタブー視してはいけない。議論をすることによって、よりよい意見が生まれると、わたしは信じています。


今月の21日に東京地裁で、東京都教育委員会が、入学式や卒業式で教職員が国旗に向かって起立し国歌斉唱するよう通達したのに対し、都立学校の教職員ら401人が都と都教委を相手取り、通達に従う義務がないことの確認や損害賠償を求めた訴訟の判決がありました。

難波孝一裁判長は、「通達や都教委の指導は、思想・良心の自由を保障した憲法に違反する」との違憲判断を示し、教職員に起立や国歌斉唱の義務はなく、処分もできないとする判決を言い渡しました。また、慰謝料として1人当たり3万円の賠償を都に命じました。

わたしはこの判決を聞いて驚きました。そもそも式典の時に国歌や国旗を尊重するのは当然のことです。スポーツの試合を見てもらうとよく分かると思いますが、国歌斉唱の時には起立します。相手の国が自分の気にくわない国でも起立します。これは礼儀です。

しかし、この教職員たちは「思想・良心の自由」を主張して、国歌斉唱や国旗掲揚時の起立を否定しています。これが通用するならば、卒業式で生徒が校長先生に礼をすることも否定できるでしょう。「わたしは校長先生と思想が相容れない。なので校長先生を尊重する必要はなく、礼をする必要はない。」と。またはこういう主張も可能でしょう。「人間は平等だ。なので、相手が校長先生だろうと礼をする必要はない」と。しかし、これでは式典が成り立ちません。

世の中には自分の納得のいかないことはたくさんあります。だからといって納得のいかないことには従わないというのでは話になりません。このことに関してはソクラテスが「悪法も法なり」と言っています。納得いかないことでも従いつつも、納得いくように変えていく努力をすべきなのです。例えばこの場合は、国旗・国歌に納得がいかないなら、国旗・国歌を変えていくべきなのです。それでも、国旗・国歌が変わるまでは現在のそれに従うのは当然のことです。もちろん私が今の国旗・国歌を変える必要がないと思っているのは言うまでもありません。

そもそも、こういう人たちは「国旗や国歌を強制しないことを強制している」のです。生徒は教師に内申書などの決定権を握られているわけで、もし式典で国歌斉唱したら教師に目を付けられると思ったら、生徒は歌わないと思います。百歩譲って歌いたくない生徒は歌わなくてもいいとしても、少なくとも教師は歌うことを指導すべきです。教師が国旗・国歌に反対だろうと関係ありません。自分の思想と相容れないから教えないというのでは教師失格です。こういう教師がいるので、国旗掲揚や国歌斉唱を義務づけなくてはならなくなるのです。

それに、国際化と言いますが、自分の国の国歌すら歌えないようでは、「おまえはどこの国の人間だ?」と言われて恥をかきます。外国の国歌を調べてみるとよくわかるのですが、君が代はとても平和な歌詞です。しかも短歌という日本の素晴らしい文学が元になっています。外国の国歌を見ると「武器を取れ」だの「敵の砲火をついて進め!」だの、物騒なものばかりです。そういうのもわかっていて日の丸・君が代に反対しているのでしょうか。

こういう人たちは、オリンピックで日本人選手が日の丸を持ってウィニングランをしていることにも反対をしてほしいものですね。「侵略の象徴である日の丸を持ってウィニングランするとは、アジアの人民への配慮がない」とでも。

ちなみに、今回都を訴えた人たちの思想がどんなものであるかは、以下に紹介するホームページを見てもらうとよくわかるでしょう。このページの『あなたは「君が代」を歌いますか』という記事を読むと、よくもこう国旗・国歌を罵倒できるものだと感心というかあきれてしまいます。
http://www.din.or.jp/~okidentt/nezusan.htm

今回勝訴した原告の教師は、判決後、教育委員会が控訴しないよう訴えるため、教育委員会に乗り込んだそうですが、教育委員長に会えないことを知ると怒号を飛ばしたそうです。そんな怒号を飛ばすような品のない教師に教わる子供たちが気の毒です。

今回は地裁での判決です。日本では三審制がしかれているので、高裁や最高裁での審議を見守りたいと思います。おそらく教師側が逆転敗訴するのではないかと思うのですが、その時に教師側がどういった主張をするかも注目したいと思います。おそらく「不当判決」とか「権力の横暴」とか「戦前回帰」という言葉が並ぶんでしょうね。


渡嘉敷島の集団自決に関する記事の中の、金城さんという当時の渡嘉敷島民のお話を引用してみましょう。

金城さんは「自決を命令する言葉があったかなかったではなく、軍隊によって住民が追い詰められていったことが問題だ。上陸一週間前に自決用の手りゅう弾を渡すなど、日本軍は巧妙に住民を追い詰めていった」と説明。「集団自決」は、直接、手を下さなかったが日本軍による「虐殺」だと指摘した。

この金城さんという方も戦争の被害者です。そのことに関しては大変気の毒なことだと思います。ですが、だからと言って、こじつけてまで日本軍を悪者にしていいわけではありません。この集団自決は戦争という異常な事態の中で起きた不幸な事件です。誰も悪くはないのです。

金城さんは短大の名誉教授だそうです。学者ならば違う意見にも耳を傾け、間違いがあれば自分の非を認めるべきではないでしょうか。金城さんにはそういう意識が薄いようです。この記事は一年前のものですが、今回の軍命令はなかったという証言を聞いて、どういう風に答えるのでしょうか。


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